教師の基礎基本

教師の基礎基本。
基礎は、職業観。
基本は、教育技術。

基礎なくして、基本なし。
教育技術について、
一斉指導かアクティブラーニングか、
知識注入か問題解決学習か、
個のみとりか集団統制か、、、
基礎がずれた状態でどんな議論をしても無意味。

そして批判に足る多くの場合は、
基礎がずれるというよりも
基礎が欠落しているところにある。



基礎がある人とは、ずれている場合に対話を繰り返すことで埋め合わせていくことが可能なこともある。
もちろん、対話は、職業観についてである。
これなくして、教育技術をどうこう議論しようが相入れるはずがないのである。

授業研究で授業だけを見ても意味がない場合と同じである。
基礎の対話がなされてこそ、授業研究は意味をなすのだ。

教育技術は研究すべき対象ではあるが、実のところ、それ以前にすべきことがたくさんあるのだ。
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    自分の成長を見つけるということ

    子どもは、本当に成長が早いですね。
    体重が増えたり、しゃべれる言葉が増えたり、できることが増えたり。

    我が子の、そういった成長を見ると、うれしくなります。
    子育ての楽しさでもあるでしょう。

    さねくんも、日々できることが増えてきており、また言語力もずいぶんと高まってきています。
    助詞を正しく使った文が組み立てられるようになっています。
    聞いて分からなかったことには「なに〜?」と聞き返すこともできます。
    こちらが言ったことが違っていれば「ちがうよ。」とも言えます。

    もっと言えば、言い聞かせることもできます。
    さねくんからすれば、聞き分けができるようになっています。
    因果関係がだいぶ理解できてきています。
    「ちゃんとすれば、楽しいこといっぱい。ちゃんとしないと悲しいこといっぱい。」
    みたいな。
    ちゃんとの中身は、その時によって違いますが、例えばごはんをさっさと食べてしまえば、そのあとたくさん遊べるけれど、途中でぼけ〜っとしてしまったり、きらいな食べ物でだらだらしてしまうとあとで遊ぶ時間がなくなってしまうとか、そういったもの。
    できるかどうかは別として、それが分かっていて、がんばれる限りがんばろうとできるのです。


    さて、先週は、そういった成長とはちょっと類がちがうなと思うものがありました。


    保育園の玄関にマットがしいてあります。
    そこには、いろいろな動物の絵が描かれています。

    マットが敷かれたことから
    さねくんはそれを見て、「ぞうさんだ。きりんさんもいるね。うさぎさんも・・・。」
    などと指差しながら言います。

    しばらくしてから、さねくんはぞうさんを必ず指差すようになりました。
    2頭のぞうが描かれていますが、それを指差しながら
    「お〜き〜いぞうさん。これは、おとうさんぞう。ち〜さいぞうさん。これはさねちゃんぞう。」
    と言うようになりました。
    親子関係を認識できているのですね。そして子ぞうがにこにこしている様子もわかっています。
    「なかよしだね〜。」
    と言います。


    先週のことです。

    さねくんが、大きいぞうを指差しながら
    「これは、さねちゃんぞう。」
    と言ったのです。

    「え?さねちゃんはこっちじゃないの?」
    と言おうとした次の瞬間、

    「おおき〜いぞうさん。おとうさんおかあさんさねちゃんぞう。」
    「ちっちゃいぞうさん。ゆりつみちゃんぞう。」
    と言ったのです。


    ああ、そういう風に世界観がかわったのだね、さねくん。
    さねくんは、もうすっかりお兄さんです。

    さねくんのその一言に、これまでの「成長が嬉しい」という感覚よりも、
    胸にじんとくる、そう、さねくんを一人の人間として尊重するようなそんな感動を覚えました。


    子どもの育ちを近くで見ていられるって、本当にすばらしいことですね。

    JUGEMテーマ:子育て
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      お子さんに、一時的なネット利用規制を

       しばらく、お子さんのインターネット利用を控えるようにしていただけませんでしょうか。

       特に、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)にかかわるチャンネルを切ってください。

       普段なら、生活にとけこむようにインターネットやIT機器を利用してよいと思っています。授業の全てをパソコンで行うとか、そういう非生活的なことはおすすめしませんが、ノート、鉛筆、ハサミと同じ、道具の一つとしてパソコンなどが使えるようになっていればよいと思っています。
       子どものネット利用を規制する動きについて、個人としては「使わせないようにするだけでは、正しい使い方を覚えることができない。」と考えていますから、正しい使い方を教えることを主として、それに加えて「なぜ、規制が必要視されるのか。」を理解できるように教えるようにしています。

       ただ、ときには、待ったなしということがあります。
       例えるならば、本当に火事が起きているときに、避難訓練をしたりはしないということです。

       今、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が2人の日本人を拘束し、2人の命とひきかえに要求をしている事件が発生しています。土曜日に、この事件が悪い方向へ進んでいることがニュースで報道されています。

       お伝えしたいのは、子どものみなさんにネットを利用しないでほしいということ。
       理由は、一生の心の傷になるような、衝撃的な映像などが、指先まで届いている可能性があるからです。

       もちろん、そのような映像が存在することもなく、事件が無事に解決することを一番に望んでいます。
       解決するまでの「一時的」です。
       万が一のことを考えるのは、不謹慎なことですが、だからといって、万が一のためのことを言えずに負の連鎖が起きてしまうままにはできないと考えました。

       テレビドラマのサスペンス番組、ゾンビを銃でバンバン撃つような映画、モンスターを武器でやっつけるようなゲームなどなど、残虐(ざんぎゃく)シーンを描くものはたくさんあります。それらも、知らず知らずのうちに感覚を麻痺させてしまうおそろしさもありますが、今回のような現実社会で起きていることは、どんなに心をごまかそうとしても、子どもでも「ドラマやゲームとは違う」とわかります。
       それが、クリック一つで、あるいはクリックしなくても勝手に子どもに届けられてしまう可能性が、今はあります。

       体は、体育の学習などをしているからそんな簡単に転ばないし、怪我の防止の仕方もわかっていますから、そうそう大きな傷を負うことはありません。しかも、多くの場合、体の傷は治ります。
       ですが、心の傷は、そんな簡単に治せるものではありません。
       心に傷を負った場合、
      ・自分では心に傷を負ったことを気づかない場合がある。
      ・日常生活の中で突然、恐怖の映像が頭の中によみがえり、パニックになる。
      ・体に力が入らなくなり、何もやる気がなくなってしまう。
      ・人に理解してもらえる自信がもてず、相談できない。
      ・がんばれない自分、ダメになっていく自分のことがどんどん嫌いになっていく。
      といったように、よくないことが連鎖的に起きてしまい、場合によっては取り返しがつかないことになります。

       心に傷を負った場合、素人(しろうと)では治すことができません。これは体と同じです。擦り傷くらいなら、消毒して絆創膏を貼ってあげられますが、骨折した人は医者にしか直せませんよね。カウンセラーさんなど、専門的な知識をもった人と治療することになります。目に見えないから、「お悩み相談」程度に軽く考える人が多いですが、一瞬の気はまぎれても、根本を解決することはできないことの方が多いのです。

       もしも、事実いかんに問わず、すでにこわい映像などを目にしてしまった場合は、近くの大人や、カウンセラーにつないでもらえる人にすぐに相談してください。
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        人の言葉は人の言葉

        東京タワー

        「一隅を照らす」という言葉。
        わたしは、”ひとくま”と習ったという記憶だったが、どうも記憶がごっちゃになっていたようだ。

        しかも、この「一隅を照らす」は天台宗最澄の言葉だと、ググって知る。
        私は宗教的な意味合いがあるとは、それほど思わないが、例えばこれを学級だよりで使ったらちょっと問題になったかもしれない。

        「片隅を照らす」という表現もある。

        でも、そもそも「隅」は”すみ”と読む。
        ”くま”は「隈」という字。

        う〜ん、どれほどの違いがあるかは微妙だけど。

        隈は、「目の隈」で使う。

        曖昧な記憶が、何かの勘違いかもしれないので、
        「隈を照らす」で調べてみる。
        すると、
        後撰和歌集の中の
        「秋の夜の月の光はきよけれど 人の心の 隈は照らさず」
        という歌が出てきた。

        ああ、こっちの記憶かな、とも思ったが、やはり私ははじめの「一隅を照らす」を習ったのだと思えてきた。

        もう少し調べてみると、「一隅を照らす」は、テレビ番組「3年B組金八先生」で登場した様子。
        あまり金八先生は観ていなかったけれど、この回は観た記憶がある。
        でも、それを観ていたときにも「あれ?いちぐう?ひとくまじゃないのか?」と思った記憶がよみがえってきた。
        ということは、それ以前にやはりどこかで習ったのだろう。

        その時の先生が、どんな意図で「くま」と読んだのかは忘れてしまったけれど、あえてそう読んだという記憶なのだ。むー。

        「一隅を照らす」という言葉自体には、私はあまり宗教色はないと思っている。なぜなら、最澄はたしかに天台宗の開祖であるけれど、空海と対比されて哲学者のようなイメージをもっていたからだ。
        でも、まあ人はどう受け止めるかは、私の思いを打ち明けない限りはそれぞれだ。


        こういう、「One for all,All for one」みたいなスローガンやら含蓄のある言葉系を私はあまり使わないのだけれど、
        使うときは、とりあえず調べてみることにしている。
        それは、
        ・出処はどこなのか、誰なのか
        ・本来の意味はどういうものなのか
        ということを確認するために。
        で、調べると、たいてい「本来の意味ではこういう意味」とことわりが見つかる。もともとの使われ方とは違う使われ方をしていることが多いということだ。

        別に、言葉だから、頑なに「本当の意味はね」みたいなことをふりかざさなくていいのだけど、
        知っているのと知らないのでは大違いだなと思う。

        結局、人のつくった言葉は、自分の言葉ではないから。
        自分の言葉のように語るならば、意図(伝えたいこと)が伝わるかどうかを確認することが大事だ。
        本来の意味が違ったりするのならば、ただその言葉を放っても、人によって受け取り方が異なる可能性があるということだ。



        今日は、ですます調でない記事になりました。
        facebookでつらつら書いてたのだけど、文章量が多くなってきたので、やはりブログに残すことにしたもので。
        冒頭の画像は、先日、見学の下見に行ってきた際に撮影した東京タワーの画像を、「Waterlogue」というアプリで加工したものです。
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          この1ヶ月間の総括

          運動会がありました。
          運動会は体育的行事ですが、ねらいは「体育」だけではありません。

          最近は、「勝ち負けにこだわらない」とかいう指導が台頭してきた感がありますが、
          それは、他のねらいの方を大事に思っていることや、競うことへの不平等感という外圧によるものではないかと考えています。

          私は、勝ち負けにこだわらせます。
          勝ち負けにこだわらないのであれば、運動会なんていつやってもいいわけです。
          練習開始の次の日に運動会でもいいのです。
          協力?仲間?絆?
          だったらそもそも運動会なんて行事でなくていいわけです。

          ですが、私がねらっているのは、「体育」のためというより、むしろその他の方です。
          そのために、勝ち負けにこだわらせます。
          勝ち負けにこだわるからこそ、練習期間に一生懸命練習するし、思考もします。
          勝ち負けにこだわるからこそ、相手の努力が見えてきます。
          そして、
          勝ち負けにこだわるからこそ、終わったときに、勝ち負け以上のものが得られるのです。

          その時に初めて「協力」とか「仲間」とか「絆」とか目に見えない抽象的なものを、子どもは実感できます。
          ちゃんとその中身が語れる子になります。
          すなわち、そこに価値をもてる子になります。


          勝ち負けにこだわらないって、洗脳したら、こだわらない子に育つかもしれません。
          洗脳なんて言葉が悪いから、しっかりとした手立てをうったら、こだわらない子に育つかもしれません。

          私は、そう口で言い聞かせるのは「負けたときに悔しがるな」と言っているのと同じ意味になると思っていますし、
          それはそうそうできるものじゃないとも思っています。
          「負けたときに、悔しいって言うな」と言っているのではないのです。「悔しがらない」という感情を育てようというのです。
          そんなことってできるのでしょうか。
          勝っても勝ったことには喜ばない、負けても負けたことに悔しがらない、それは不自然であると思うので、私は子どもの自然な気持ちに寄り添った上で、それ以上に得られるものをちゃんと実感できるようにすることに力を入れたいのです。


          勝ち負けにこだわらせるのは、自然の流れに寄り添いつつの手立ての一つでしかありませんから、
          いろいろな方法があるでしょう。

          だから、
          負けた組が悔しがっていないのを見て、「変なの。」とは思いません。
          「それ以上の何かを得たのだな。」と思います。

          まあ、勝った組が、喜んでいないのを見たとしたら「変なの。」と思うでしょうけれど。

          また、
          勝ってしまうと、「みんなが協力したから勝てた」と因果関係を作ってしまいそうですね。
          勝った組の方が、難しいかもしれません。勝ってうれしいし、協力できたことが特に気持ちよかったなどと分けてふりかえれる子がいたらそれはすごいことでしょう。


          ですから、ふりかえりのさせ方も大事になりますね。
          ふりかえりが感想になってしまう子がとても多いです。
          ふりかえり方について指導が足りてないことが多いからでしょう。

          自分の中で、行事を通して、あるいは行事の前後にて、どんな変化があったか。
          そしてそれは、どんな意味があるのかを書かせます。
          自己評価です。自分に価値付けをするわけです。
          (高学年を想定して書いていますよ)

          教師が価値付けることは簡単ですが、それは「気付かせる」のか「押し付けるのか」といった違いもあります。
          何より、自分のことを自分で認められる、自分の成長を自分で認められることが大事です。
          それが「目的をもてる人」になるための栄養になります。

          与えられたものに一生懸命がんばれる力も大事ですが、実現したいこと・なりたい姿に向かって一生懸命がんばれる力も大事です。


          自分のとった言動の、どのあたりが「がんばり」に値するのか。
          自分たちで起こしたどんな関わりが「協力」に値するのか。
          そこにどんな感情がわいたのか。
          素直な気持ちを表現させて、それを認めることにこそ、大人のできる価値付けがあります。

          子どもが実感していないことに価値付けしても、そこに納得や共感はありません。
          子どもがこっち向いてないときにゆさぶりをかけても、ついてきやしません。



          さて、この1ヶ月、主体性を育むのに適した行事にて
          私はかなり教師主導の指導をしました。
          卒業までの経営計画から逆算して、いろいろと思うところあって。
          おかしな話に聞こえるかもしれませんが、子どもの主体性を育むために、教師主導の指導をしたんです。



          公のブログで、子どもも保護者も見れますので、種明かしできない部分はいろいろとあります。
          料理人の門外不出のレシピみたいなものです。
          テクニックうんぬんよりも、私の心の内にまだ秘めておいた方が、子どものためになることがあるのです。
          というわけで、特段、誰かの役に立つ記事にはならないわけでありますが、
          ウェブログですから、自分の記録として、出せる部分だけでどう総括できるかやってみることにします。
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            歴史認識



            歴史学者という存在は、とても貴重な存在に思えます。

            その場で何があったのか、どのような経緯があってその状況が生まれたのか、それによってどのような変化が起きたのかを解明したいという純粋な探究心。

            純粋な探究心が、政治的なしがらみをこえるわけです。

            国家間が、その時代時代で自国の社会秩序を維持しようとするために、歴史認識を外交的な切り札として用いている以上は、永久に正しい歴史認識は得られません。
            歴史認識という言葉を用いていても、正しい歴史認識を求めているわけではないからです。
            歴史認識論は道具であり、目的にならないからです。


            私は教育公務員ですから、学習指導要領に則った指導をします。
            教師という仕事は、子どもに何かしらの価値観を教える(押し付ける)仕事のように思われるかもしれませんが、
            本当は違います。
            価値というものを教えはしますけれど、子どもたち自身の学びにより、価値判断力を身につけていけるように支援していくのが仕事です。それは人としての尊厳にかかわることでもあります。
            人格の完成とは、我々大人が子どもを完成させてやるわけではありません。
            自身で人格を完成させていくことを追求するよう、育てていくわけです。

            歴史認識について、学習指導要領に則った指導をしていくことはまちがいありませんが、
            私はやはり哲学肌なのか、学者肌なのか、純粋な歴史認識を探究するところから、幸福追求に向かって欲しいと願うところが大きいです。
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              教室環境あれこれ




              暑い!暑いです!
              でも夏の暑さは風物詩。これはこれで嫌いではありません。

              さて
              教室環境について(だけでないけれど)、いろいろと考えるところがあります。
              子どもの頃から、学校ではずっとそういう教室で勉強してきているので、疑う人も少ないのでしょうが、
              本当にあの教室環境が、最も学習効率のよい環境なのかというと、そういうわけはないと思うのです。
              とはいえ、集団で学習するわけですし、予算も限りがあるものですから(今のご時世はめちゃくちゃ教育予算は少ないし)、
              そもそも“最も学習効率のよい環境”なんてものを想定して設計されているわけでもないとも言えます。


              環境をどうするかということを考えるには、
              まず、学習効率って何だということから考える必要があります。


              ☆脳の認識にかかること
              たとえば、○を見て「まる」だと認識できるとか、まずはそういうことです。
              子どもたちが、自分が考えたり理解したりするためのインプットがどのように用意されているかということ。
              そして、それが平等に用意されているかということ。

              ○を見て「まる」と認識するのはかんたんに思えますね。
              簡単な例ですから。
              でも、教室では常に新しいことを学習しているのだとすると、提示される記号(文字、音など)への認識は、結構大きな問題であります。
              板書がきれいな先生と、なぐり書きの先生、
              話す声が落ち着いていてはっきりしている先生と、小さい声でもごもごしている先生(あるいはつんざくような大きな声の先生)
              全員が(同じ大きさであることがどれだけ要求されるかは学習内容にもよると思いますが)同じように認識できる資料提示と、前方中央に座っている子にはよく見えるけれど、端の子や後方の子には見えにくい資料提示・・・・。
              どれも、重大な学習環境です。

              アウトプットに向けて展開していく教育活動にとって、インプットをどのように用意するかを考えることは不可欠です。


              ☆喚起にかかること
              「なにこれ?」「知りたい!」「ダメでしょ!」
              学習と感情は切れるものではありません。
              純粋な認識にかかわるインプットだけでよいのであれば、それはロボットにプログラムをしていくとか、単語カードに英単語を書いていくとか、そんな作業となるでしょう。相手は人ですから、自律的な学習意欲の喚起がなければ、学習そのものは成立しません。
              勉強したくないって思っている子に勉強させることが難しいと思っている人は、まさにそういうことです。
              勉強したくないのに、参考書買われてきても、勉強したくなるわけないですから、動機付けか強制のどちらかしかありません。

              ただし、これは環境というよりは技術によるものが大きいですね。


              ☆思考の促進にかかること
              子どもたちは、自律的に学習しているわけですから、それをどのように支援するかがポイントですよね。
              「自分で考えなくていいから、覚えろ」と言っている先生なら別ですが。
              教室掲示などを想像される方も多いでしょう。
              学習の足跡を教室に貼っておく先生は非常に多いです。
              授業中に、これまでに学習したことを活用して解決していくために、その情報が教室に残っていることは大きな助けです。
              ただ、小学校でしか実現できないでしょうし、小学校でも多数ある教科の中で全ては貼っておくことなどできません。
              (私は教室掲示物の学習効果には懐疑的です。)

              問いをもったとき、何をするかというと、考えてみたり調べてみたりします。
              初めに考えることは、予想だとか仮説です。調べてみたあとには、整理して考察もするでしょう。
              それぞれのタイミングは授業展開によって制御されるイメージが大きいでしょうが、今回は教室環境について話をしているので、
              自律的に学習している子どもたちが、どの思考の段階にあっても、その思考の支援となる環境が用意されているようにしたいというのが私の考えです。
              辞書・インターネット接続端末・資料・本などがすぐに手にとれるようになっていたらよいのですけれどね。

              また、問題解決していくには、思考を整理する段階(情報を整理する段階)はあって然るべきです。
              ノート・メモ用紙・付箋・模造紙・PCなどが自由に選べ、使えるようになっていたらよいです。
              ただし、整理するためのツールを自己選択するというのも一つの力でありそれはもともとに備わっているわけではないこと、
              そして教室で学習する意味の大きな部分は共同思考ができるという点にあるということからして、ツールが自由に選べ使えればよいだけではいけません。
              たとえば、資料を拡大してみんなで見ることができるようにしたり、一つの資料を全員に素早く配布したり、一人ひとりの意見をファシリテートする助けとなったりすることも大事です。



              ここまでくると、「それって、電子黒板とかタブレットとかの話?」みたいになりそうです。
              ICT推進派の人には、そういう風に読めるのではないかと。それもアリです。
              ただ、学習効率の議論を先にすることが大事なのであって、この手の人が嫌われる理由のほとんどは「機械音痴の人によるアンチ」ではなく、「機械があって、何しよう」的なものの考え方をしているからです。

              私はというと、機器も環境の中に設定していきますが、執着がありません。
              私の力量の問題も一つですね。
              今、教室に入ってこられる機器類は、授業の中で使っていくのに性能的に不十分な点が多いというのが理由の一つとして挙げられます。
              例えば、私はホワイトボードが苦手。もともと字が下手で、マーカーにツルツルのボードでは上手に字が書けません。
              同様に、電子黒板はきれいに字が書けません。DSなどゲーム機並みに性能がよければいいのにとよく思います。
              子どももゲーム機に慣れているので、電子黒板に書くのはイライラします。(もちろん新奇性効果が1週間くらいはありますが)
              また、教室全員に提示するには画面が小さく、視野角も不十分です。私はディスプレイを2台設置してカバーしようと考えますが、一画面なら、やはり黒板の位置に、黒板サイズが欲しいところです。

              私が使うためのどうこうではないので、教室の環境としては、機器を含めて学習効率がよいものを取り入れたいと思います。


              この記事は、8月15日に執筆し始めたのですが、話の内容一つひとつが議論として深めていかなければならないものであったために、下書きにして放置していたものです。
              結局、埋もれる前にということで、第一弾としてリリースしてしまうことにしました。

              私自身が勉強していくうちに、また少しずつ考えを深めていけると思います。
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                授業者の授業づくりのめあて

                研究授業にて。

                ノートの記述から子ども一人ひとりがどのように考えているのかをみとり、
                それを次の授業にいかそうとしている先生がいた。

                みとっているからこそ、授業の流れの中で意図的に子どもを指名して発言させたり、
                それでまた授業の流れをつくったりしていくことができていた。


                座席表に落として、それを活用するのも一つの方法ではあるのだけれど、
                手間がかかる分、それを毎時間するのは無理がある。
                だから、こういう使い方をするときの座席表はいわば「みとりの強化トレーニング」だと私は思う。
                座席表に全員の思考を埋めようとすると、なんとかして一人ひとりが何を思考しているのかを考えたり、探ったり、記録したりする。これは座席表が作れるようになるという力ではなくて、みとる力とか全員をみとろうとする姿勢が身につくのだ。


                「座席表が作れるようになる」という段階を、周囲の先生は否定してはいけない。
                作れたときは、多少の強引さがあろうとも、一人ひとりをみとろうとしたその先生の子どもへの愛があるのだから。
                「座席表が作れるようになる」段階の場合は、授業の中でも座席表を傍らに置き、それを参考にしながら授業をする。

                そこから段々、座席表に落としてく作業中に頭に記憶されて、
                座席表なしでも授業ができるようになる。
                これは、子どもが何を考えてきているかを“分かったつもり”になって授業にのぞむのとは少し違う。
                座席表などに一切取り組まず、子どもの思考を記憶だけ頼りにして授業にのぞむと、必ず学習の土台にのれない子どもがでてきてしまう。みとる手立てが少ない教師は、30数人を相手しているつもりでも発言の多い子とか気になる子に意識が集中してしまい、いつもあまりみていない子がいてしまうもの。
                座席表に落とす作業を通すことで、授業の流れを考えるとともに、誰にどのような支援をしたらよいかも考えるようになる。


                「一人ひとりのノートに書かれていたことが全て頭に入っているのかと思ったよ。」
                と私が言うと、その先生は、
                「いやいや。傍らで見ながら必死でした。」と話されていた。
                加えて
                「全員を授業で活躍させるのは、むずかしいなと感じました。」
                と話されていた。

                この言葉って、「全員を授業で活躍させたい」と思っている人にしか言えない言葉。
                そういう姿勢で授業をつくっている、学級をつくっていることが実にすばらしいなと感じたのだった。


                授業の流れをつくるという段階から、子どもの思考の流れをつくるという段階になると、
                また座席表でも何でも使い方は変わってくるけれど、
                いずれにしても、授業者それぞれのキャリアの中で、自分なりの授業力向上のめあてがあることが大事で、
                共同研究をしていても、そこを互いに尊重しあえることが大事である。
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                  学校の掃除

                  学校の掃除の時間にする掃除と、家などで自分がする掃除って全く別物になっているなと感じることがあります。

                  家でほうきや雑巾を使わないなんてこともあるでしょう。
                  今やルンバみたいなお掃除ロボットが掃除してくれているでしょうし。
                  家でやるのは、片付けくらいなのかもしれません。

                  でも、そういうことが言いたいのではありません。

                  集団で行うということ、
                  また小学校だと、1年生という発達段階から教えていきますから、型を作っていくことも大事です。
                  掃除は「当番活動」なのですね。
                  みんなで同じところやっても意味ないし、効率悪いし。


                  家などでの掃除ってどうでしょう。
                  学校での掃除だけで「掃除」を覚えて大人になった人がいるかもしれませんが、
                  ふつう、汚れているところをきれいにしませんか?


                  教室には、いつまで経ってもきれいにならないところがあります。
                  また、みんなきちんと雑巾がけしても、床がきれいにならないことがあります。
                  なぜなら、「当番」で担当場所を決めてあり、それぞれの掃除の仕方が決まっているからです。

                  掃除の仕方は、本来”大枠“でしかありません。
                  もちろん、超超几帳面な先生が、担当場所や掃除の仕方を細分化して、もれなく組んでいけば、いつも教室はきれいに保たれるかもしれません。
                  でも、清掃活動は教育活動であり、これが本来「教えるべき内容か」といえば、決してそうではありません。

                  雑巾の人は、1人3列やる
                  とか、そういうことじゃないです。
                  3列を担当場所として、そこがきれいになっているかどうかチェックさせるとか、そういう“責任問題”でもありません。

                  こういう「掃除」を教えていたら、子どもは汚れを気にしなくなります。
                  ほうきをふる、雑巾をかける、ただそういう行為が掃除なのだと習慣づくでしょう。
                  きれいになったかどうかなんて、どうでもよく、きちんと仕事したかどうかの方に意識がいくでしょう。


                  物が落ちていたら気になる
                  これが、当たり前の感覚になるように教えることの方がよっぽど大事です。
                  自分のものかどうかなんて関係ない。
                  床に物が落ちていたら変なんです。
                  拾って、近くの人に聞くとか、持ち主に届けるとかするでしょう。
                  ごみが落ちていたら、拾ってゴミ箱に入れるでしょう。
                  えらいことでもなんでもありません。
                  当たり前のことです。

                  何か汚れが見えたら、雑巾しぼってきて拭く。
                  当たり前のことです。


                  目の前に誰かの持ち物が落ちていても、平気な子がものすごく多いです。
                  驚愕の事実ですが、拾う子、「誰の?」と聞く子の方が少ない。
                  廊下のフックから物が落ちていて、持ち物に名前まで書いてあるのに、そして数十センチ上のフックにかけるだけなのに、それをしない子の方が多いのです。

                  ずっと観察し、言い続けてきていて、きっとこういうことなのだなと思うのは、
                  子どもにとっては全く悪気はなく、無意識なのです。もはや“眼中にない”のです。
                  「あ、落ちているな。でも拾うの面倒だな。」と考えて拾わない子は意外にも少ないのだと感じます。

                  できないことが悪いとかそういうことじゃなくって、
                  当たり前の感覚を身につけられるように指導することが大事だなとつくづく感じるのでありました。
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                    週末は、総合的な学習の時間の発表会

                    総合的な学習の時間の発表会があります。
                    学芸会をやっている学校でなければ、だいたいの学校がやっている行事ではないでしょうか。

                    総合的な学習の時間は、名称が長いので記事の中では「総合」と書くことにします。


                    発表会のための「総合」をやるのはサイアクだと思っています。
                    いろいろと言いたいことはありますが、(特定の誰かにじゃないですよ。)
                    「総合」については過去にも記事にしていますから、今日は今日考えていることだけ書きます。

                    「総合」の学習発表会では、
                    はっきりと単元がその子にとって意味のあるものだったかが分かります。

                    でも、みんなが分かってはいません。
                    むしろ、分からないようです。

                    超簡単な見方があります。それは
                    生き生きと発表しているか
                    です。
                    上手に発表しているか
                    ではないですよ。

                    本当はこれだけではだめなのですが、系統学習=学校教育みたいなイメージが払拭できない多くの教員やほとんどの大人にとっては、「総合」を解釈するのは相当難しいのです。


                    ここからは教師のカリキュラムデザインが大きく関わってくるので、見た目としては微妙かもしれませんが、
                    「総合」の学習発表会で、深い知識を披露しているところは、たいてい失敗単元です。
                    あ、中学生の「総合」だったらあると思いますが。

                    内容は、結構雑だったりします。
                    だって、子どもが本当に解決したいことに向かった結果だから。
                    体系的な研究は、まだまだ小学生には難しいです。
                    ですから、ベタだったり、雑だったりします。でも、そこにあらゆる要素が詰まっています。

                    自分(たち)が解決したいという気持ちを爆発させている時、
                    日頃の教科学習でやっていたことが「うおー、これ使えるじゃん!」となるし、
                    足りないことについては、学年の壁を超えて学んでしまったりします。

                    1週間、1〜6時間目まで全部「総合」でもいいって思ったりします。


                    発表会というのは、普段の「総合」とはまたちょっと別次元なのですね。
                    大人は発表会があると緊張しますし、きっと「なんとかうまいことやりたい」と思います。
                    でもそれって子どもも同じです。
                    発表会が近づいて「どうする?」みたいなことすると、今まで単元のらりくらりだったものは一気にテーブルから下げられて、発表会のための取り繕い調べ学習とか始めてしまいます。
                    「総合」をちゃんとやっている先生の中には、こういう様子を経験していて「発表会なんてなければいいのに」と思う人も意外といるものです。

                    ただ、「総合」を「総合」足らしめるには、発表会のような外部の人とかかわる機会というのが欠かせないものです。
                    だから、これもまたカリキュラムデザインの一貫なのです。

                    自分たちで内輪な「総合」は、「総合」としては洗練されません。
                    どこかに相手意識がふくらむ場面が盛り込まれて、かかわっていってこそです。

                    学校行事として時期が決まってしまうので、やりづらいのは否めません。
                    学級によって、単元によって、時期がちがって当然なのですから。
                    研究の方法を説明して一緒に参加してもらうのか、
                    研究の途中報告をして助言をもらうのか、
                    研究成果を発表して理解してもらうのか
                    などかかわりにもいろいろなカタチがあります。

                    ほとんどの学校のほとんどの学級は、成果発表なのですけれどね。
                    それが悪いわけでは決してないのですが、やはり教師としては、「総合」のあらゆるスタイルを実践していけるようになりたいものですね。


                    生き生きしている発表には、きっと対話があります。
                    伝えたいこともあるのですが、意外と聞きたいこともあったりするのです。
                    調べ学習の発表のようでも、調べたことだけでなく、その子なりの考察がきっとあるはずです。
                    そうなるように、指導していきたいものです。


                    あれまあ、さくっと書くつもりが、結局たっぷり書いてしまいました。
                    おしまい。
                    0

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