「どの子も」の授業は、覚悟なしには作れない?!

自分ができてるできてないの話ではなく、理屈の話です。 

ルーブリック(Rublic)のみそはどこにあるか。
様々な考え方があるでしょうが、私はC基準と評価資料にあるかなと思います。
基準のとらえは、疑いもなく到達度評価なわけですが、「なんのための基準か」ということが大事なわけで、それは正しく「子どもが単元目標を達成するためのもの」なわけであり、すなわち「子どもが本時目標を達成するためのもの」なわけです。
したがって、C基準は「できない」表現で書いても意味がなく、支援が要することを書くことになります。
どちらも一緒に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私としては、子どもを育てる教師の心持ちの表れがあるのではないかと考えてしまいます。

単元内のどの場面かにもよりますが、そもそもルーブリックは、評価の曖昧さを徹底的に排除することが目的なはずであり、ゆえに「授業内にどの子も」という教師の覚悟があるのだと考えています。

授業の終わりにノートで評価することは多いと思います。
ただ、いつもそれでは、C基準となる子をいつまでも授業内では満足させられないという、教師の放棄があらわれるのではないでしょうか。

「みとる」という言葉を、教師は本当にたやすく口にしますが、私の考える「みとり」とは評価基準の上に成り立っており、
「授業中にこんないい姿の子が見られた」
なんていう一部切り出しのものでは教師としてはまだまだだと感じます。

B基準だって、なんの手立てもなしに到達できるわけじゃありません。
(もしなんの手立てもなしに到達できるのならば、規準の見直しも必要でしょう)
評価資料が原則1授業1つというのもルーブリックの大事な考え方だと思います。

C基準の子を、そのまま終わらせない。
次の授業を「肯定的な気持ち」で迎えさせることは、そういった子には特に必要なこと。
そう考えれば、「できてない子がC基準」なのではなく、「支援を要する子がC基準」であるとし、その子への手立てが用意されているべきなのです。


私の評価観の根底には、やはりルーブリックが根付いています。
その理由は、単に、国の指定をうけた研究が初任で赴任した学校にあたっていたからかもしれませんし、個別支援学級を3年間もったことによるのかもしれませんし、もともとの自分の教師像なのかもしれません。よくわかりません。

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