JAPET&CEC 教育ICT課題検討部会

先日行ってきました。

JAPET&CEC 教育ICT課題検討部会 ラウンドテーブルディスカッション

表題は「情報社会を生き抜くためのデジタル時代の教育のあり方と課題〜子どものIT端末との付き合い方と学びはどうあるべきか〜」でした。

 

 

パネリストが多方面にわたっていて、大変充実していました。

議論したいところがたくさんあり、3時間でも「エンジンが温まったところ」という感じで終わってしまいました。

もっともっと聞いたり、議論したりしたかったのが本音ですが、次回のお楽しみにします。

 

さて、今回はその記録、ということではなく、ディスカッションに参加させていただいて私なりに感じたり考えたりしたことを残しておこうと思います。

 

長くなりそうな予感。

 

身の回りにデジタル機器があふれ、生活する上で欠かせない存在になっている時代です。

IoTやAIが家庭にも入ってきており、この分野はこれから数年で爆発的に広がっていく気がしています。

第4次産業革命の訪れですね。

 

議論の筋はリテラシーにあると思いますが、学校で(広く)教育情報化が進まない要因はいろいろとあります。

学校文化には、「写真撮られると魂吸い取られる」みたいものがはびこっているところがあります。

新しいものを受け入れ難い体質があるのでしょう。

近年は社会的課題の多様化からくる教育への社会的要請も増え、教員の多忙感からその体質に拍車がかかっています。

学校に取り入れてもらいたいという「◯◯教育」の数はとてつもない量です。

 

今回のディスカッションの中で、パネリストの方から「ICT機器とうまく付き合っていく方法は、中高生からというのではなく、小学生のうちから教えられているべきで、今それがなされていないことは子どもにとって大きな機会損失である。」という言葉がありました。

おそらく会場にいらっしゃる方は皆「その通り」と思われたことでしょうし、私ももちろんその通りと思いましたが、

これは「◯◯教育」を推進しようとしている団体での話し合いではどこでもそういう言葉が出てくるはずです。

 

学校現場としては、

価値が分からないわけではない。

でもどれも取り入れるというのは不可能である。

今のカリキュラムは満車の駐車場のようなものだから、新しいものを入れる余地がない。

駐車場を広げるというのは、授業時数を増やすことになる。子どもにも教員にも無理がある。

といった理屈になっている中、

一番上の

「価値が分からないわけではない」自体が「分からない」状態に近いICT教育なんて、後の後のあと・・・になっているわけです。

 

先の精神論的な話からすると、学校教育で批判すべき「根性論」「修行的勉強」を行なっている教員は、

「便利になる」=「バカになる」だと思っている節もあります。

 

これまでの文明の発達の中で、人は便利なものことをたくさん発明してきましたが、果たして人間はバカになったのでしょうか。

「便利」は「楽」を生みます。教育の敵は「楽」だと思っている教員に、人類の歴史は永久に理解できないでしょう。

 

らくすることが思考力を低下することにつながるかどうかは、まさに人の生活の在り方によります。

楽すると思考力が低下するから「子どもが時代に乗り遅れるのではないか」「生きる力がつかないのではないか」と真剣に心配してくれているわけです。

 

農業機械が発達したことで、農作業はぐっと楽になりました。では、農家の方はらくしてだらしない生活を送るようになったでしょうか。家電が発達したことで、家事を行う時間が大きく短縮されました。では、人々はらくしてだらしない生活を送るようになったでしょうか。

農繁期でも子どもは学業に向かうことができるようになりましたし、より環境にあった作物をつくったりより美味しい作物になるように研究を重ねるようになりました。おかげで人の暮らしがさらに豊かになりました。

家電の発達のおかげで、家族団欒の時間が増えたり、余暇活動をする人が増えたりしました。もちろん、仕事時間が増加するといったことにもつながりました。それが今の社会を蝕んでいるわけですけれど、要するに課題は「楽しない」ではなく「時間をどう使うか」なのです。

 

現在は、正直1日24時間では足りないような生活になりつつあります。

自分の生活にとって大事かどうか判断する前から、溢れるほどに情報がやってきます。

「情報消費に慣れ過ぎている」

情報社会の中での問題はここにあります。

時間を管理する力をつける時間すら、情報消費におしつぶされているという感覚です。

 

「IT端末との付き合い方と学び」

という言葉がサブタイトルに入っている今回のディスカッションでしたが、

そこの前提にたどりつくまでに学校教育がすべきことがあると私は思っています。

今の子どもの生活を見つめ、今の子どもの生活をアップデートしていけるようにすることが教育の基礎です。

その中で時間を管理する力はとても重要だと思います。

まだ未熟な子どものために、大人が子どもの時間を管理してやることは必要ですが、管理と教育はほぼ対極にあるものだという認識をもっているべきです。

 

さて、今の子どもはデジタルとアナログというものを区別した感覚をそもそも持っていないというのが私の考えです。

電気を使っているかいないかの区別くらいでしょう。

子どもにとって、生活が全てであり、身の回りにあるIT端末は生活の一部であり、玩具でも家具でも道具でもあります。友達であるかもしれません。

学校は超アナログな世界(これでもずいぶん教育情報化は進んだのですが)の上に、デジタルとアナログを区別して教育を行おうとしています。それが土台無理な話だと思っています。子どもにとって区別のないものを「概念的な区別」を教えることはできても、生活から切り離せというのはどういうことでしょう。DSはおもちゃだけどトランプとこま以外はおもちゃじゃないとか、家にベッドがあってもそれは西洋かぶれになるから学校では布団の話しかするなとか、ペットは動物だから家族じゃないとか、そういう謎の教えということになります。そんな意味不明な理屈が、子どもの生活を豊かにするわけありません。

 

そもそも子どもがIT機器を生活の一部としているのは、近い大人がIT機器を使って生活しているからです。

子どもが情報の消費に慣れ過ぎているならば、それは近い大人がそうしているのでしょう。

時間の管理が苦手な大人なんてごまんといます。(日本人には特に多いのではないでしょうか。私もそうです)

大人の情報リテラシーが低いと、それこそ情報サンドバッグになっていることでしょう。

見てもいいし見なくてもいい動画を、節分の豆を食べるように淡々と見続けてしまうとか。

 

スマホ依存・ネット依存は、子どもだけの問題ではないですよね。

 

 

長くなりましたので、そろそろ私の結論を。

学校では、やはりIT機器の使い方、付き合い方をしっかり教えていくべきだと思います。

スマホが、玩具であり道具であること。何になりうるのか、そして何ができるのかを教えること。

はさみを学校にはもってこさせないで、はさみの良さを語ったり、使い方や注意点を教えるなんてナンセンス。

おもちゃを授業中に使ってはいけないのなら、休み時間にでも使ったらどうでしょう。ついでに授業中はどうしてトランプで遊ぶのがよくないのか、どうして授業中に教室から出ていくことが好ましくないのかを教えたらよいでしょう。

コミュニケーションの仕方も、授業の中で(遠隔地交流も含めて)どんどん使っていく中で、教師が子どもの姿をみとり、価値づけていくべきでしょう。

使わないことには始まりません。

 

個人的には、情報の消費者側にとどまることなく、情報もつかってクリエイティブになっていくことを望んでいます。

 

さいごに

教師の仕事は、教科書に書かれた知識をただ伝言するものではありません。それこそ、生きる力をつけることにあり、生活をより豊かにしていくことと将来的に幸福追求できる人に育てていくことにあります。

人ものことに頼り頼られる関係を見つめていけるようにしていくことが大事だと私は思うのですが、「頼られる人になりなさい」が学校教育の精神は強すぎる気がします。頼れるものに頼れるようになることも大事な成長だと思います。

 

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