メソッドかコンセプトか

ふとネットで記事を読んでいて

「メソッドではなく、コンセプトである。」

というものを目にしました。

 

 

私の考えは、過去10年さかのぼっても、おそらく変わらないと思います。

「コンセプトをしっかり立てて、メソッドを研究する。」

 

学校教育というと、ほとんどが一斉授業型を思い浮かべます。

先生が黒板にはりついて、子どもたちは黒板に向かって机を並べて学習するスタイルです。

もちろん、グループを作って活動する時間もありますが、多くの時間を一斉授業型で過ごしているのが日本の教育スタイルといってよいでしょう。

 

私は、このスタイルのよいところはそれほどたくさんないなと思っています。

子どものものの考え方が同じで、特定かつ固定の理解を得たいときは有効であると思います。

私自身、話術・語り・演技などで子どもを引きつけるのは得意なものですから、そういう授業形式をとってしまうこともたくさんあります。でも、子どもの学びや子ども同士の学び合いや育ちを考えたときには、このスタイルはあまりにもったいないものです。

学校で学ぶ時間は限られています。

子どもが学校に来る理由は、教室で学ぶ意味があってこそだと思っています。

教師が黒板にはりついて、授業を1対1対応で進めるのであれば、ネットでもできるでしょうし、他に優れた教育コンテンツがいくらでもありそうです。正直、将来AIロボットの方が優秀に教えられるようになるでしょう。

 

子どもが自分たちで学びを作っていくときに、となりの友達がいてくれることによって、実現可能なものがある、それが教室でなければなりません。

 

 

こういったアンチ一斉授業型というか、同品質の知識人を育てているかのような工場型教育に対するアンチをもっている方もたくさんいます。海外の教育スタイルから学べるものもたくさんありますから、改革できる切り口は、本当はたくさん用意されています。

 

そんな方々がよく口にするのが冒頭の「メソッドではなく、コンセプトである。」です。

これは、誰に向けて発されている言葉かというと、

そういったアンチ一斉型で、子ども一人ひとりが目を輝かせ、真に自分たちの学びを追究する姿に心打たれた人

です。

 

今の学習形態に何かしらの違和感や、自身の教師としての停滞感を感じる教師ならば、

子どもの豊かな学びの姿を目の当たりにした際、

「これだ!」

と思うに違いありません。

 

それってとても大事なことだと思います。

 

ただ、そういう方に向けて

「メソッドではなく、コンセプトである。」

という言葉が発されるのは、

子どもの姿と同時に、他にない学習スタイルも目にうつるからでしょう。

 

子どもが授業中に立ち回りまくるとか、机がないとか、いろいろ。

この言葉には、

教科書を使わなければ

とか

子どもを授業中に好き勝手に立ち歩かせれば

とか

大きなテーブルで異学年で学ばせれば

子どもが豊かに学ぶということではないんだという注意喚起だと私は解釈しています。

 

ただ、この言葉、私は正確ではないと思うのですね。

教育において、メソッドというのはものすごく大事だと思っています。

というか、メソッドのない教育なんてないとも思います。

 

それは、一般的な学校教育のスタイルであっても同じことなんです。

校内の授業研究であっても、同じような議論にであったことがあります。

一生懸命授業研究している人ほど、「手立て研究」を口では嫌います。

でも、私は、研究内容は手立ての他ないと思っています。

もちろん、理念・理論を常に構築し直すという作業は必要であり行っていることではありますが、基本的にそこを研究しているのではなく、あくまでも理念・理論を実現するためのよりよい手立てを研究しているはずなのです。

 

新しい学びのスタイルに、外見だけで飛びつかれて、

新奇性とでもいえるでしょうか、一定期間は子どもの姿に変容があるかもしれませんが、

大事なコンセプトが教育者におちていなければ、効果は限定的であり、また元通りになってしまうかもしれない、、、

だから「コンセプトである。」と念押ししているわけです。

 

正確には、「コンセプトであり、それに基づくメソッドを研究中である。」だと思います。

 

どんなによい教育スタイルがあったとしても、それは何によって実現しているのかを見極める洞察と、メソッドを真似するだけでなく常に自分を磨き続ける意志がなければ意味を成さない、

そういうことでしょう。

 

その前提さえあれば、私はメソッドに飛びついたっていいと思うのですね。

わかりやすいところからでも入っていけたら、それでよいじゃないですか。

 

 

オフィシャルとして、断りを出すのは大事だと思いますが、

それが「自分たちは高尚」というアピールだと誤解されてしまうのも、また悲しいなと思ってしまうのでありました。

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    子どもの学習カードは誰のため

     

    小学校では、絵日記や観察カードのようなものをよく書きます。

     

    そして、よくそれが教室に掲示されています。

     

    私は、教室掲示をあまりしません。

    子どもたちが「見る」ことで、学習のたすけになる。

    と、ねらいがはっきりしているときと、

    たまに学校に足を運んでくれる保護者が、自分の子どもの学習の様子をうかがえる。

    という場合に限ります。

     

    教室内が掲示物でにぎやかだったら、気持ちもにぎやかになるでしょうから

    そういうクラスがあることを別に否定はしません。

     

    ただ学習カードに限っていえば、もともとは子ども一人ひとりの記録なわけですから、それを並べて見せることは

    ・学習中にすぐに自分の記録を参照できなくなる。

    ・比べなくてよい自分なりの表現を、友達と並べて見栄えで評価したりされたりするおそれがある。

    というデメリットもあることを、きちんと認識しておいて欲しいと思います。

     

    観察カードは、国語や理科の学習の中で、学年に応じた「何が」「どのように」などを記録する方法を指導します。

    子どもにしてみれば、別にそれにしばられる必要はありませんが、そうやって方法を学ぶ時間を通過することで観察力とそれを記録し思考を整理する力は伸びるでしょう。

     

    生活科の学習でも、野菜を育てる活動などでカードをかきます。

    私だけで学習カードを作る場合は、無地・罫線・半分無地で半分罫線の3種類は用意します。

    3年生から理科の学習が始まりますが、2年生までの生活科の観察カードはまだまだ「何でもあり」なんです。

    見たことを書いてもよいし、日記のようにしたことを書いてもよい。さらに言えば、野菜へ伝えたい言葉を書いてもよいのです。

    色・形・大きさなどの特徴を意識して観察しておく(記録しておく)と、変化に気付いたときにより思考・感動します。

    だからある程度声かけで書く内容を促しはします。

    でも、何を記録するかは、子ども個人の自由なんです。

    だから子どもが書いているときに机間巡視をして、子どもと話をして、話してくれたことがまだ記録されていなかったら「こうやってかいてみたら」とおすすめしたりするのです。

     

    字が苦手な子に、無理に文章をたくさん書かせようとすれば、せっかく体験して感動したことを台無しにしかねないのです。

    また、絵の苦手な子に、精細な絵を求めるのも同じことです。

    「記録」だけが目的、なんてことありませんよね。

     

    保護者の方は、自分の子どもの観察カードを見たとき、他の子よりも文章が少なかったり、絵が書かれていなかったりすると、それをマイナスに受け取りがちなんです。

    ですから、今日この記事に書いていることは、知っておいて欲しいことです。

    ほとんど文章が書けていなくても、実に絵が豊かなことがあるじゃないですか。

    また、絵も文章も雑だったら、子どもにカードのことではなくその日の体験について語り合えばいいんじゃないでしょうか。

    体験したことがつまらなかったらそれまでですけれど、もしそうでないのでしたら、語り合うことでその子の心にはしっかりと記憶されますよ。

     

    「体験を共有するパートナー」と「学習方法を伸ばす教え手」を、上手に使い分ける。

    子どもに寄り添うというのは、そういう振る舞いを認識しておくとよいのだと思います。

     

    JUGEMテーマ:学力

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      ドラクエ3から学んだこと

      ファイナルなんとかっていう技を繰り出すそうです。

       

      さて、先日テレビで「劇場版名探偵コナン ベイカー街の亡霊」というのを観ました。

      10歳にしてマサチューセッツ工科大学に籍をおくという天才少年が出てくるんですけれど、

      劇中のセリフで「個性を摘み取ってしまう日本の教育に・・・」というのがありました。

       

      いや、教育職側の私が言うのは変なんですけれど、日本の学校教育の悪の部分はまさにそこだって思います。

      個性を伸長する教育と高らかに言っているけれど、日常の授業形態とか、学校独自の統制など目に見える課題がそこら中に転がっています。

       

      私は「困る子が一人もいないように」という思いが強く、結果授業をなかなか前進できないことがよくあります。

      これも一斉授業の形態で個を伸ばさない教育に加担してしまっているとも言えます。

      その子の困りは、全員同じ進度・全員同じカリキュラムという制約がなければ、そもそも存在しないものかもしれないってよく思います。一人ひとりに合った学習ができるしたいところです。「協働的な学び」は大好きですけれど、これが全ての解ではないとも思っています。

       

      このことを考えるとき、よく自分が子どもの頃に夢中になってやった「ドラゴンクエスト3」を思い出します。

      (別にドラクエ3に限ったものではないんですけれど)

       

      主人公は「勇者」です。

      それ以外は、職業のある仲間を連れていきます。

      体力があって物理攻撃が得意な「戦士」

      仲間を回復できる「僧侶」

      体力はないけれど、敵全体を攻撃することもできる「魔法使い」

      素早く敵よりも先制ができるが、身軽さのために装備できるものが少ない「武闘家」

      ほとんど得意なことがないが、たまにお金を多くもらえる「商人」

      いつも役に立たないが、レベル20に達すると急遽「賢者」に転職できる「遊び人」

      ちなみに「賢者」は、悟りの書というアイテムがあれば遊び人でなくてもなれる。「賢者」は僧侶と魔法使いの両方の魔法が全て使える。

      どの職業も、長所もあり短所もあるんです。

      勇者はオールマイティーで、勇者にしか使えない強力な魔法なども習得するんですけれど、パラメーターとしては「全体的に高い」というだけで、どの職業をも凌駕するわけではありません。そして血統であり職業ではないので、他に仲間とすることはできません。

       

      ルイーダの酒場というところでひとたび勇者にスカウトされてしまえば、大魔王ゾーマをやっつけるまで旅のお供をすることになるやもしれませんが、勇者にスカウトされなければ、そこらの地域貢献でもすることになるのでしょう。

      勇者はというと、血統で強く人々から絶大な信頼を寄せられますが、「魔王を倒す」という宿命から逃れることはできません。

      (死んでも強制的に復活させられ「死んでしまうとは情けない」と王様に怒られます)

       

      それぞれに得意分野があって、互いに助け合うことでうまくいくという体験ができるからこそ、「ロールプレイングゲーム」というのだと思います。

       

      はてさて、日本の学校教育は、ドラクエ3でいうとどの職業を育てようとしているのでしょう。

      全員勇者に育てようとしているんじゃないかとすら思うことがあります。

       

      憲法にあるように、「職業選択の自由」をできる限り保障してあげようと思うと、大人になるまでにどの職業にでも就けるような知識・技能を身につけさせてやらないとという思い。それは大事だと思っています。

      でも、「遊び人がなんで賢者になれるんだ」という問いも結構重要なんじゃないかとも思います。

      そして、レベル20になって転職できる職業に「遊び人」はないという事実も。

      いやあ、実によくできています。

      レベルと年齢は関係ないんですけれど、現実世界でレベルを年齢に置き換えるとすごく深いものを感じるのですよ。

      大人になってからは、遊び人に転職はできないんです。

       

      魔法使いから戦士に転職して、魔法がつかえる戦士とかできるんですけれど、思ったほど使えないんですよね。

      餅は餅屋ってことなんです。

       

      ゲームの職業を現実世界でそのまま「職業」として置き換えるのではなく、個性と置き換えてみると考え所になりませんか。

      平たい個性を作る。没個性は、誰を幸せにするのかと。

       

      学校での教育は、教科におとしこんだ知識・技能だけではありません。

      子どもが遊び学んでいく上での「遊び方」「学び方」にこそ個性があって、その個性をどう伸ばしていけるのかを考えていきたいものです。

       

      JUGEMテーマ:教育

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        もっと主張してこい

        教師ならば、自分なりの教育論をもっていてほしい。

        そう思います。

        最近の私の願いです。

         

        もうそろそろ言われていないし、もうその言い方しなくていいじゃないかと指摘されるかもしれませんが、

        基本的に私、ゆとり世代とよばれる方々に、あまり否定的な見方をしていません。

         

        どれくらい世間で通用しない人がいるのか知りませんが、

        私が知っている後輩たちは、本当に勉強熱心だし、人に対しても誠実な人です。

         

        でも、その誠実、というか素直さゆえに、自分の考えをあまり主張してこないなという感覚はもっています。

        私、そんなにこわい存在なのでしょうか。

        数年前に同世代の同僚に「私たちはもう、世代差があるんだよ。」って言われて、そのときはそんなものかなと思っていましたが、最近はよくそれを感じます。嫌な意味ではないけれど、たしかにちょっとさみしい気持ちはあります。

        一緒に語り合って、という関係ではなくて、背中を見せるっていう関係になるのかなって。

         

        私は、主張ははっきりするタイプですが、それとは裏腹に人に自分の主張を強要する気はほとんどないんです。

        後輩に何か聞かれたら答えますけれど、後輩の話を聞く方が好きですね。

        できればそれをいつも応援したいって思います。

         

        何年か前に組んだ先生に

        「町田先生って、聞いてもなかなか教えてくれませんよね。」

        「そうそう。こちらの考えを言ってからじゃないと、話してくれませんよね。」

        みたいなこと言われたのをよく思い出します。

        最近は、そんな厳しくないですよ。

        厳しくなくなったのはどうしてかなっていうと、もしかすると自分がさっさと退勤してしまうから、長く話を付き合ってあげられないという私自身の覚悟のなさからくるのかもと反省することもあります。後輩と話をしているときは、できる限り時間を気遣わせないように話しているつもりではありますが。。。すっかり子育ての人として気遣ってもらってばっかりになっています。

         

        若い先生の教育論、いっぱい聞きたいなあ。

         

        JUGEMテーマ:教育

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          校内研究に理論はどれだけ必要か

          どういうわけだか、研究推進委員長をずっと仰せつかっている私。

          この役って、どういう人間が適任とされているのだろうかと、いつも不思議に思っています。

          授業がうまい人?

          物書きができる人?

          面倒見がよい人?

          どれかに秀でている人がなるかもしれませんし、全体的にバランスがよい人がなるかもしれません。

          外面が気になるなら、授業はそれなりにうまくないといけないでしょうし、何より物書きができないといけないでしょう。

          でも、校内だけ見たら、面倒見がよいっていうのはとても大事だと思います。

          まあ、授業下手な人についてはいかないでしょうけれど。。。

           

           

          校内研究については、ずっと立場を担ってきた分もあってか、いろいろと思うところがあります。

           

          私が常々おかしいなと思っていることは「研究が深まる」という言葉です。

          たとえば学習指導要領にある文言を読み解いて、自分たちで実践におとしていき、目標と子どもの姿に実感をもつことはあるでしょう。でも、それなら学習指導要領をよ〜く読んでいけばよいのだと思います。指導要領を読み合って、一緒に授業を作っていけばよいのです。校内でわざわざ似たような言葉でオリジナリティを出したかのようにして、「本校の研究」とする意味がわかりません。

          そして、「はっきりしていく」ことを「研究が深まる」という言葉で表現すること自体、変だなと思います。

           

           

          私は学習指導要領に書かれていることは、とても大切だと思っていますし、だからこそよく読んで授業づくりに生かしたいと思います。で、先日の「成長単元」じゃないですけれど、私なら学習指導要領をこえる部分にも思いがあります。

          もしそこに校長の信念があったり、(まだまだとても難しいことですけれど)地域みんなで願っている特色ある教育があったりするならば、そこはスポットとなりえます。「研究を深める」ってこともあるかもしれません。

          ただ、「研究が深まる」のであれば、年を重ねるたびに子どもがどんどんすごいことになるってことになりませんか。

          まさか「人が変わるから、そうとはならない」なんていいませんよね。そんなのなら、そもそも研究じゃありません。

           

          確かに、学校の経営方針が骨太で、しっかりするほどに年々学校の子どもの姿が明らかによくなっていくことはあります。

          これは実感としても感じたことがあります。

          ただ、だとすれば深まる一方なはずがなく、年によっては浅くなることもあるのでしょう。

          浮き沈みするってことでしょうか。であればやっぱり「研究」ってなんなのだろうってなります。

           

          私は、校内研究の目的は、同じ子どもを見て、先生たちが「この子たちをこんな子に育てたい」という思いを共有して、様々なアプローチを試みながらその願いを実現していくことにあると思っています。

          ですから、理論とか手法とか、正直二の次なんです。

          自分の研鑽として、自分の授業作りの幅を広げることは大事です。

          講師の先生に教えてもらうことでいつも心が動くのは、手法や指導のことじゃなくて、「子どもの見方」です。

          ああ、なるほど、そうやって子どものことをみていくのか、うけとめていくのか、つなげていくのかと。

           

          いろいろなセオリーを話されることもあります。

          で、指導案検討のたびに、「こういうのはよくない」とか「こういうアプローチで」みたいなこと話し合うんです。

          もちろん、授業者がよい授業ができて、子どもの育ちを実感できて、もっともっと子どもと一緒に学びを作っていく楽しさを求めていけるようにしたいと思いますから、失敗のないようにと話すことはいろいろとあると思います。

          でも、そこに尽きるんです。だから、手法とかにしばって授業を見ようとしたら、その先生のよさを見ないことにもなりかねないし、自分がその先生から学ぶ機会をも失いかねないのです。

           

          授業者が町田なら、町田節を見せればいいんだと思うんですね。

          「あの業は、町田先生だからできるのであって。」

          ということになるかもしれませんよ。

          でも、自分に取り込めることはきっとあるでしょうし、少なくとも自分を省みることで自分の業ってなんだろうという意識をもつこと、発見することにつながるんじゃないでしょうか。

           

          どの子にも通用するような授業づくり(展開や発問・板書が決まっている)なんてものはない、というのが私のスタンス。

          多くの人がそこに共感してくれるなら、

          じゃあ、どうして先生にもそれを適用しないのでしょうか。

          20年以上生きてきた人間の背景なんて、ほんと全然ちがいますよ。

          教育に携わるからには、そして同じ子どもを育てるからには、価値観をすり合わせていくことは絶対必要。

          でも、その人の思考回路をしばるのはおかしいし、その人の持ち味にふれる機会を放棄するなんてあまりに勿体無い。

           

          若手の先生は、とても低姿勢に教えを請うてきますし、自分のものにしようと努力もしています。

          それは素晴らしいことですが、いつも言っているのは、「もっと自分らしさを出しな」ってことです。

          子どもの人権を尊重できているという前提さえしっかりあれば、授業スタイルはその人の持ち味を見てみたくて仕方ありません。

           

          JUGEMテーマ:教育

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            日常と結びつかない教育はもうやめにしないか

            土曜日にとあるイベントに参加して、

            学校でのICT活用について、いろいろと考えました。

             

            でも、まあICTという3文字を出す前の問題がありまして、今回はそこから。

             

            公立の小中学校は、たまに「小さな社会」と言われたりします。

            それは、いろいろな境遇の子どもが通ってきて、多様なものの考え方や価値観、生き方があるからです。

             

            ただ、ほとんどの人が実感しているのは、「学校」と「社会」は似ていない、ということではないでしょうか。

             

            もちろん、社会なんてものを感じること自体ができず、このたとえは不明確だとも思いますし、勤める会社によって、環境は大きく異なることも承知しています。

             

            ただ、ここで指摘したいのは、「学校は独自の社会を形成しており、合理的な規範に一致しないことがまま見られる」ということです。子どもの社会を構成しているのは、時間的制約から実質的であるだけであり、これを批判的に見てみることは大事かもしれません。

             

             

            学校あるあるでいうと、

            ・むやみやたらにルールを作る

            というものがあります。

            筆箱の中身は、えんぴつ4本、赤鉛筆1本、消しゴム1個とか。

            シャーペンはNGとか。

            先生の話を聞くとき、手は膝とか。

            学校への欠席連絡は、連絡帳か電話のみとか。

             

            こういうものについて、学校側はそれなりに「理屈」をもっています。

            それを納得できるかどうかの折り合いが「合理性」だと思います。さて、折り合っているでしょうか。

             

            この理屈が正しいとしたとしても、その背景にはどれも「コントロール」という言葉が浮かんできます。

            主体的・対話的で深い学びをする子どもを育てようというとき、「コントロール」は極力減らしていくべきではないかと、ふつうに思います。

             

            現状だと学校は、「学校社会」を学ばせているのであって、どんなに高尚な学習を組もうとも、それは高尚な場である「学校」によって力を発揮するように仕組まれてしまっているのではないか。という危惧があります。

             

            続きはまた。

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              授業研、終了

               

              やっと回ってきた自分の番の授業研究会。

              5月にスタートカリキュラムの公開授業研究会で発表して以来です。

               

              自分がまさかのインフル罹患で欠場なんてことになるわけにはいかないという気合いと根性のせいか、

              家族の中で私だけピンピンしています。

              (といって、明日あたりばったりいくかもしれないので、いうのははばかられますが)

               

              子どもたちの姿をたくさん褒めていただいて、

              そして改めて「大事な視点」を言葉でご指導いただくことで、身が引き締まりました。

               

              「子どもの思いに寄り添った授業づくり」

              というものを本校ではずっと大事にしてきていますが、

              子どもの思いに寄り添うというのは、何を考えているかを把握するというだけではないのだということ。

              どうして子どもがそういう思いにいたっているのか、その背景をみとるところが大事だということを、

              今日改めて感じることができました。

               

              クラスの子どもたちが、自分たちで進行したり、話へ反応したりする姿が自然であること。

              まさに次の指導要領で目指している姿ということでした。

               

              私の心の中の、率直な感想はですね、

              「両隣のクラスも、いつもこんな感じの授業をしていますぜ。」

              っていうものです。

              二人が「私たちだって」と自負されているかどうかは分かりませんが、お世辞でなく事実ですよ。

              いつも頭がさがる思いですから。

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                あと50日

                ヘリが6機も編隊を組んで飛んでいました。

                飛行機はよく見ますが、ヘリは珍しく見ました。

                訓練なのでしょうかね。

                 

                さて、今年度の授業日数もあと50日となりました。

                1年間がおよそ200日なので、4分の3が終わったのですね。

                あと4分の1です。

                 

                6年生担任ですと、本当に「ふつうの1日」の方が少なく、いろんなことが毎日あります。

                1日1日を大事に大事にって思います。

                今年の1年生担任としての心境は、

                「ぴかぴかの2年生」になれるように、もれなく準備していくという気持ちです。

                 

                今日も、授業中、子どもたちの姿を見ていて、着々と2年生に向かっているなあと成長をひしひし感じました。

                音声言語だけでなく、文字言語もすっかり自分のものにしていきています。

                文章を読み取る力もとても伸びていますし、集中力の持続もたいしたものです。

                この子たちが、1年前に年長さんとして自信に満ち溢れ、希望をもって小学校へ進学したのと同じような気持ちで、2年生を迎えられるようにしてあげたいという思いでいっぱいです。

                0

                  社会という言葉の指すもの

                   

                  「社会」という言葉、ありますよね。

                   

                  大辞林で調べると

                   生活空間を共有したり,相互に結びついたり,影響を与えあったりしている人々のまとまり。また,その人々の相互の関係。同種の生物の個体間の相互関係や,それらのまとまり。

                   同じ傾向性質,あるいは目的をもつ人々のまとまり。

                   (自立して生活していく場としての)世の中。世間。

                   「社会科」の略。

                  とありました。

                   

                  言葉の意味としてはそうなのですが、いざ、人々がこの言葉を使うとなると、

                  ・「まとまり」「関係」の適用範囲

                  ・時間軸や時間的範囲

                  が、それぞれに異なっていて、実は共有できていないことが多くあります。

                   

                  例えば「平和」について考えてみますと、

                  自分の身の回りで何も事件が起きていなければ、「平和だ」と思うでしょう。

                  「日本は平和」だなんて、よく言いますよね。

                  でも、日本にだって、身の回りで事件が多発しているようなところもあります。

                  そういう地域や集団の渦中にいれば「日本は平和」だなんて全く思わないことでしょう。

                  日本社会という大きな社会を適用してみても、立ち位置によって、自分との関係によって見え方は違い、当然捉えも違うということになります。

                   

                  時間軸では、特に混乱があるかと思います。

                  こと教育のような、将来的な展望を語るような場においては、時間軸や時間的適用範囲の異なる「社会」が飛び交い、

                  なんともパラドキシカルなことも起きます。

                   

                  今年4月に施行された(制定は3年前)「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」のように、

                  「差別」について考えてみますと、その理念と方法とでは、指している「社会」が時間的に異なります。

                  合理的配慮・社会的障壁の示す「社会」は、現社会をしか表すことができません。
                  もちろん、だからこそ差別を解消するために、合理的配慮を行っていくわけであります。

                  しかし、(間違っていたらすみません)この法律は、時限立法ではないですよね。

                  そうなると、永久に合理的配慮は「義務」や「努力義務」であることになります。

                  義務でなくて「普通」である社会はいつ訪れるというのでしょうか。

                  (もちろん、法律の場合は、社会が変わったときに法律も変えればよいのですが)

                  言葉の中に矛盾ではないけれどパラドックスが生まれていると感じます。

                  「社会」という言葉を口にしたと同時に、もう一つ別の「社会」の存在が明らかになってしまうというか。

                   

                   

                  先日出された、次期学習指導要領の議論のまとめを読んでいても、「社会」というものを考えました。

                  これは、教育的というよりも哲学的な考えではありますが。

                   

                  人間は、「向う先」を決めて、行動することによって社会を維持・発展させてきています。

                  私の教育ではなく哲学の考えの中では「維持・発展」ではなく「持続・継続」です。

                  ヒトという種が、絶滅することなく存続しているということです。

                   

                  では、逆に、人間は「ルール」とか「目標」をもたないと絶滅してしまうのだろうかと。

                  教育的には「豊かに生きる」「幸福を追求する」ということを目的にして、生きていますし仕事していますけれども、

                  しばしば私はこういう哲学的な思いにも駆られます。

                   

                  今日、Yahoo!ニュースにあった、「ブルドッグのゲノムにほとんど個体差がなく、危険な状態」というものなどからも考えてしまいます。先日の相模原での痛ましい事件の容疑者の理屈からも考えてしまいます。

                   

                  倫理観とか、決まりごとを発展させてきた(哲学的な私には「発展」を意味していないけれど)人間社会は、

                  どこに向かっているのだろうかと。ほんの数万年だけ食物連鎖の頂点に立ち文明を発達させただけにすぎない、宇宙規模でいうと泡が生まれてはじけた炭酸水の一粒みたいなものなんじゃないかと。

                   

                  その上で、私は、

                  「暴力の排除」(差別解消も同意)は、人間社会の発明だと思います。

                   

                  そこを、科学してみたいという思いって、みなさんはもったりしませんか?

                   

                   

                  そんなこんなで、

                  数年前に買って、積ん読していた「複雑系」の本を、引っ張り出してきました。

                  この夏にゆっくり読もうと思います。

                   

                   

                   

                  JUGEMテーマ:教育

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                    アクティブラーニングの捉え方 1



                    保護者が転ばぬ先の杖を出しすぎるのと同じように、教師も興味関心のお膳立てや、思考の整理をやりすぎてしまいがち。


                    それは、一方的に知識を与えればいいと構えている教授型の教師よりも、子どもに寄り添っていい学習をさせたいと思っている人に多く見られる傾向。


                    もちろん限られた時間の中で、教室完結的な単元において、前者の授業よりも子どもはわくわく学習するし、それなりの力が子どもにはつく。


                    でも、長期的に見ると、意外に「何もちゃんと、教えてくれない教師」に習った子どもと、ほとんど学力が変わらなかったり、むしろ逆だったりすることもあったりする。


                    学力を何ではかるかにもよるのだが、要するに子ども自身が考えたり、考え方を獲得していったりすることをうばってはいけないということだ。


                    アクティブラーニングについて、一単元だけを切り取って「子どもがわいわいやっている」状況がそれだと誤解してしまうと、頑張って授業づくりしている教師が「私はもうできている」と思ってしまい、大事なことを落としてしまうかもしれない。


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